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2018年3月3日土曜日

人間は死んだらどうなるの?

人間の意識は全て脳が司っています。よって仮に心臓が止まっても、脳内に血液があればそれを使って神経細胞は生き続けます。指先や足先等から伝えられる電気信号も、その神経細胞が生きている限りは処理されます。しかし時間が経過するほどに神経細胞は死んでいくので、体から伝わる電気信号はどんどん少なくなり、その少ない信号をも処理する事ができなくなっていきます。つまり何も感じなくなる訳です。例え脳全体の機能が失われていなくても、神経細胞が生きている間は「死」と認識する事ができるかもしれませんが、そこまで行くと「自分は死んだ」という認識どころか、自分が誰で今どういう状態なのかが分からなくなります。もっと言えば「分からない」という事すら分からなくなるのです。それがその人にとっての「死」なのだと私は思います。更に時間が経過すれば、その後は燃やそうが埋めようが何をされようが神経細胞が死んでいるので何も感じません。だからと言って粗末に扱うのはもちろんいけませんが・・・。

私にとっての「死」は「無」です。よく死んだ後は霊や魂になるとか、天国や地獄に行くとか、現世を彷徨い続けるとか、閻魔大王がどうとか言いますが、そもそも前述のように「自分は死んだ」という事すら認識できないのですから私は「無」だと思っています。と言っても私自身恐怖心はあります。「死」というのは誰もが容易に経験できるものではない(事故で生死の境を彷徨う事はそうそうないので)のに、いずれは誰もが経験する事になる絶対的なものでもあるからです。来るのが分かっていて逃れられないというのはやはり怖いものです。というより地球上を探してみても、むしろ死が怖くない人の方が少ないと思いますが、世の中には「宗教」というものがあって、「死」に対する恐怖を和らげてくれます。「死」がどういうものかを考える機会なんて人生の最後の一瞬ぐらいですから、外側からでも良いので宗教を学んでみるのも「死」に対する理解が深まるきっかけになるかもしれません。

尚、私は無宗教です。宗教そのものは否定しませんが、私にとっての宗教とは、逃れる事ができない「死」のような恐怖に対する解釈を変える事で、少しでも恐怖を和らげようとするものだと考えます。何か大きな恐怖があり、それから逃れる術がない時、何かにすがってでも救われたくなるのは理解できます。しかし差し迫った恐怖がないのに、最初から宗教にすがるというのは人生においては「甘え」に繋がると私は思います。この世に神様がいるとすれば、神様は、人間が何か困った事がある度に手を差し伸べてくれるほど都合の良い存在ではありません。何か困った事がある度にただ祈っているだけで、自分からは何も行動を起こさない・何も考えないという他力本願は単なる怠慢です。時間は有限であり、その時間と戦った者にだけ手を差し伸べてくれる(・・・のかもしれないが、都合良く「手を差し伸べてくれる」等と期待している時点でそれも「甘え」。例え結果が伴わなくとも行動を起こした人には幸福が訪れ、その結果として「神様は味方した」と人間が勝手に解釈しているだけ)のです。